開業して間のないホテルは、その煌めきから幾多の人の憧れを呼んでいる。
誰もが一様に美しいホテルだと言うけれど、一体何がそんなに美しいのかを説明できる人は少ないのだろう。
大手町のホテルは広大な緑を楽しんで豊かだ。
皇居の緑はさながら太古の森のように深く、ゆっくりと呼吸している。
その呼吸は都心に充満する喧騒を飲み込んでいる。
ゆえにホテルは喧騒と無縁だ。
静けさの中、わたしには考え続けていることがあった。
それはホテルに滞在するたびに生まれてくる疑問であった。
「煌びやかなホテルに滞在して寛ぎなど得られようか」
ホテルに滞在する理由は様々だけれど、近頃はリフレッシュするために滞在する人も増えてきた。
ゆっくりと寛いで心を休めるために滞在するという贅沢はとても幸せな体験だろう。
しかし、わたしには大きな疑問がある。
華やかな空間に身を置いて心身が休まるのだろうか、というものだ。
多くの人にとってホテルは自分自身の居室よりも豪華であり、不慣れであり、緊張するものだ。
おそらくこれらはストレスに他ならないだろう。
ホテルに滞在することで感じるストレスを「非日常」や「特別感」と呼んで楽しんでいるのではないか。
わたしには「ストレスを孕んだ滞在」が寛ぎなのかという疑問がつきまとう。
なぜ人はホテルを訪れるのだろう。
わたしはしばらく考えていた。
フロント、廊下、部屋と場所を変えつつ、なぜわたしはここへ来るのかを考えた。
装飾が凝らされた空間に身を置いて、たまに窓の外に目をやってみても一向に考えつくことがない。
どこに目を向けても美しく装飾されているホテルに感心しつつ、いたずらに考えていた。
いつの間に、東京の空は墨に染まり地平線がわずかに滲んでいた。
時計はすでに会食の時間をさしていた。
考えがまとまらないまま、わたしはレストランに急がねばならなかった。
会食には個室が用意されていた。
アールデコ様式の椅子、照明。
壁が少し明るいのは箔を押した絵画の柔らかな金色の反射による。
わたしは椅子に腰を下ろした。
目の前には大きな絵画がある。
わたしはこの絵画が誠に精緻であることを見初めた。
黒々とした幹と無数の花。
花はわずかに散りつつ、満開の悦びに満ちている。
この花は散る運命だから美しいのだけれど、純粋に今盛りの生命を燃やしているさまが美しい絵画だった。
少し絵画に見とれていた。
そして、絵画はわたしに解を与えてくれた。
「煌びやかなホテルに滞在して寛ぎなど得られようか」
その解は、「得られる」である。
ただし、純粋に寛ぎを得ているわけではない。
煌めくホテルに出入りしている人は「煌めきに包まれること」に悦を感じる。
そして「煌めき」の本性がアート・工業・自然のいずれであろうと関係ない。さらに言えば、煌めいてさえいれば価値が有ろうが無かろうが関係ない。
煌めく場所に身を置くことはストレスだけれど、あたかも自らが輝いているかのごとき錯覚に陥ることができる。
その不自然な状態を「非日常」として愉悦する。
「他人がうらやむ輝く世界にわたしはいるのだ」という錯覚は実に心地よい。
純粋にホテルで寛ぐ人もいるかもしれない。
しかし、わたしはそんなに純粋ではないようだった。
エストに掛かっている桜の絵は悲しい運命を感じさせない。
素直な筆致で、素直に美しい。
素直に美を追い求めた作品を見ると、わたしがいかに素直ではないのか気が付くことができる。
わたしは「豊かな時間を過ごすには華やかな空間に行かなければならぬ」と掻き立てられていたような気がする。
自分は豊かなのだと確認するために、自分は特別なのだと言い聞かせるために、華飾に満ちた空間に好んで出入りしていたのかもしれない。
この愉悦は不毛だ。
もっと素直な感情で美を求め、寛ぎを求めていれば、「虚飾」に美を見出すこともなかったであろう。
心が求めている美と寛ぎは素直な感情の中にある。
わたしは大阪のホテルのお部屋に掛けてある優れた絵画を思い出した。
あの美しい絵画を描いた人の名を知る人は少ない。
花の絵も同じだ。
会食が始まる。
前菜が運ばれてきた。
キラキラとした時間が流れ始めたけれど、もう悦に入ることはなさそうだった。
【舞台となったホテル】